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トップ  >  参禅体験をされる方への参考資料 丸川春潭  >  3.見性のための工夫
 禅の修行において、数息観の工夫とか公案の工夫とかよく云われているが、新到の人には、この工夫すると云うことが判らない、どう工夫したらよいか判り難いので、禅門における工夫ということについて述べる。

 科学と宗教の違いは、いろいろな角度でいうことが出来るが、一つの見方・言い方として、科学は相対的な追求であり、宗教は絶対的な追求であると云い分けられる。どちらが良いとか悪いとかでは無く、異なる二つのものであり、この追求の仕方が、逆になったり混同したりしてはいけないと云うことである。

 相対的な追求は、大小、多少、長短、強弱、新旧、遠近、濃淡、老若、自他等、客観的に尺度・表現・伝達できるものである。一般的現世的ではデジタルがその象徴である。デジタルIT時代は、社会現象的において人間も含めて全ての事象を相対的にデジタルに解釈し尽くすばかりに見える。

 この中で、自他の区別について考えてみると、これは戦後日本が、個人主義、個性尊重の潮流に加えて、私有財産性を中心にした金の尺度を強く持つ資本主義に染まってゆく歴史的過程が背景にあると考えられる。良きに付け悪しきに付け、自分と他人をはっきりと区別する価値観が現代の日本の世風となってきた。この思想の根源には、自己のエゴががっちりと存在しているのである。だから他との区別を峻別するということになるのである。現代ほど自己のエゴが強く顕示され、誇張される時代はないといえる。すなわち相対的思考、相対的価値観の強い時代の中に現代人はどっぷりと浸かっているのである。

 これに対して、絶対的な追求は、相対的な追求では、まったく届かないのである。相対的な思考ではまったく理解できないものである。演繹法も帰納法も哲学を含めて大きくは科学の領域であり、絶対的な宗教の領域とはまったくことなり、そういう相対的な比較尺度では、絶対的な追求は不可能である。

 宗教の領域、とりわけ禅の悟りは、典型的に絶対的なものの追求なのである。したがって、禅の悟りは、悟ってみれば極めて明快であるが、これを客観的に伝えることが出来ないのである。そして禅の悟りを追求するためには、相対的な思考を先ず完全に捨てなければならない。数息観にしても、公案の参究にしても、この相対的な思考を捨てなければ進まないし深まらないのである。

 相対的な思考を捨てて絶対的なものを追求することを、「工夫する」と云うのである。すなわち、単に考えるとか思索するとかではないのである
然からば、工夫をどのようしたらよいかというと、それは、三昧になるということを通して初めて可能になる

 三昧になるということは人間生活のいろいろな面で極めて重要であるが、特に禅門における公案参究は、三昧にならずして一歩もすすまないと云って過言ではない。だから、入門に先立って、数息観法をしっかり修して三昧力を養成するということが当然の原則になっているのである。初則の透過がなかなか出来ない修行者の中に、公案参究に入る前の段階でウロウロしているように見えるものが多い。坐相に拘りすぎたり、参禅するのを最初からするとかしないとか決めてみたり、老師にどう思われているかを気にしたり、自分が悟りに近いとか遠いとかを考えてみたり、見性した後の気持ちを想像してみたり、全て公案参究の工夫に未だ入っていないのである。公案に取り組む以前の状態である。

 公案の透過が難しい、公案の工夫が難しいというのは、三昧にならずして世間的な追求の仕方・相対的に考え、とらまえようとしているからである。初関を透過するのに何年もかかっているのもやはり、公案を相対的に考えようとする追求の仕方にはまりこんでいるからである。現代の偏差値教育の中で教育を受け、デジタル思考に染まってしまっているインテリほど、この相対的思考から脱却して三昧になって工夫するという絶対性の追求への切り替えがなかなかできないのである。

 公案の工夫・参究、初関の透過は決して難しいことではない。公案に成りきる、公案と一体になる、公案三昧になることができれば、直ぐである。一超直入如来地とはこれをいったもので、ひとたび相対的思考を放擲し、自己を殺し尽くすとその場は即、悟りの世界であると。
よく蒲団上で死んで来い!と師家に云われるのは、まだまだこの三昧になる工夫が、不十分で、頭の隅で相対的な解析、解釈をしているからである。頭の隅でちっぽけな自己が相対的思考を続けている状態から脱却せよ! 自己のエゴを三昧に成りきることで殺し尽くせよ!といわれているのである。

 初則だけでなく200則の全ての公案は、どの則も全て相対的には全く解釈できない捉えられないものである。三昧になって頭の素てっぺんから足のつま先まで全身全霊、公案と一体に成り切ってゆく、すなわち公案の工夫三昧に入ることなしには、祖師方がその則に吐露している絶対的切り口は見えてこないのである。

 したがって公案の工夫とは、坐禅を組み、三昧力・禅定力のついた状態において、公案を静かに念提(心の中で提起)し、それを繰り返し繰り返しして、他に余念を交えない。公案以外に何もない三昧状態に到る。徹底してその状態に浸り込んで動かないことを工夫三昧というのである。

父母未生以前に於ける本来の面目如何? 本来の面目? 本来の面目? 本来の面目? ―――
狗子に仏性有りや また無しや? 無! 無! 無! 無! ―――

 どの公案においても、三昧になり、公案と自己が一体になることなしに、性を見ることは出来ない。すなわち、見性することは出来ない。
禅定三昧の工夫こそが、唯一の公案透過の方途なのである。それ以外に道はないのである。公案に成りきる三昧状態の工夫によって、仏祖が徹見した悟りの境涯に近づき折に触れて、祖師方がその則に吐露している絶対的切り口がはっきりと見えてくるのである。これを見性というのである。初則から最後の200則まで一貫して見性をするのである。
坐禅の公案参究は、難しい謎解きでもなく、沢山な知識がいる訳でもなく、難しい人間関係の解決でもなく、純一無雑に公案になり切りさえすれば、10人が10人必ず公案は透過でき見性できるのである。
 
 公案の工夫三昧になるための Know-how を二つ述べる。

 一つは、一日に少なくとも一回は参禅することである。生きた仏祖がそこに居られることの、恐ろしいほどの有り難さを思い起こし、全身全霊でもって室内に身を投じてゆくことが、見性の境涯にまで登りつめるのに不可欠といっても過言ではない。一人で工夫三昧になることに比べ何層倍も三昧が深まり、本当の工夫が深まるのは、御力のしからしむる処なのである。

 もう一つは、静坐の定が解かれた後、如何に工夫を継続するかが、大変大切と云うことである。古来の伝記を見ても、生活のあらゆる場面で見性され、大悟されているか、枚挙にいとまがないほどである。食事の最中も作務の最中も、作務の後もお茶の時も、便所に入っているときも寝るときも、24時間工夫出来るのが摂心会の有り難いところであり、工夫の継続無しに見性はあり得ないと云っても過言ではない。これには、摂心会の全体の雰囲気も極めて重要である。したがって役位の責任は重いのである。(旧参の者で、余裕的に摂心会中に多弁の者がいるが、厳に注意しなければならないことである。)
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